奈良の大淀病院の事件から学ぶべきこと その2

 もちろん産科医一人に責任を押し付けようとする見方はあまりにも酷で同じ医師として胸が痛くやりきれない思いです。しかし、だからと言って遺族が民事訴訟を起すのはお門違いという論調は、「お前ら空気読めよ」と言う程度にしか響かないような気もしています。この裁判で被告側の主張の一つに気になったところがありました。「社会的制裁(バッシング)を受けて病院が産科医療からの撤退を余儀なくされ、奈良県南部の産科医療が崩壊した」…それはマスメディアのせいだと思う…という指摘は措いておくとして。

 良く思い出していただきたいのですが、奈良県南部の産科医療体制は、この事件が起きる前からとうの昔に崩壊しておりました。お産のほとんど全てが問題なく進行するために、誰も気付いていなかったのか、見て見ぬふりをしていたのか、チキンレース感覚だったのかよくわかりませんが、この時初めて「この地域では、非常に稀に生じる重症の妊婦さんには搬送先がなく救命される可能性が限りなく低い」という状況が発覚したのです。これは地域の妊婦さんにとっても不幸なことですが、そこに勤務する医療スタッフにとっても不幸な状況でした。そして言うのも面倒くさいですが、少なくともネット世論では、奈良県南部の産科医療崩壊に追い討ちをかけたのはマスメディアだったはずです。

 もっとも地域医療は地域住民の意向によって決めればよいので、16000件に一回くらいしか妊婦さんが亡くならないのであれば(大淀病院では100年分くらいですか)、その時に遺族に何千万か支払えばよい。今、ドタバタと産科医療整備に大金を投じる必要なし…という割り切った意見がまとまっておれば、今の状況は全然OKなのかもしれませんし、むしろその方が安上がりでしょう。地域でよくお話合いをされるのが良いと思います。もしくは、16000分の1の確率であっても、妊婦さんが亡くなられるとと激しく後悔するので、多少遠くても大きな病院で産ませたい…そんな新たな価値観が生まれても良いと思います。

 今回のようにいくら稀なケースとは言え、16000件のお産を扱えば必ず一人の妊婦さんが亡くなります。その都度、医療提供者側が残された家族に「最善を尽くしたのだ」というアピールを用意しておく必要があるのでしょう。理想論かもしれませんが、一般的には、治療に最善を尽くすのは勿論のこと、不幸な帰結を悲しみに暮れる家族に可能な限り納得しやすいように伝えること…ここまでは医療提供者側の努めであってもよいと思います。産科医療崩壊が広く認識されつつある世論に後押しされて、ここぞとばかりに患者遺族を過ぎた言葉でこき下ろす方もおられるようですが、テキストボックスに打ち込んでコメント送信ボタンを押す瞬間には、とても興奮されているような状況だと思いますが、「このコメントってそんなにウィットに富んでるのか?」という視点でもう一度読み返してみるのが良いのでは…と思います。

 私は、医療提供者側が不幸な結果を患者やその家族に納得させることが出来なかったのが問題だったのではないかと思っています。どんな話合いをすれば、こちらには全く非が無いにもかかわらず(今のところネット上には非が無いという情報があふれています)、これだけ話がこじれるのでしょうか。(その後、病院と患者との間にマスコミを割って入らせた事がもっと話をこじらせたとは思います。)「真実を明らかにしたいとか子供のためなんてとんでもない茶番…どうせお金目当てでしょ…」と唾棄して、患者とその家族をDQN扱いするのは非常に簡単で、したたかに対策を練らない限りは、一向に訴訟は減らないどころか今後もガンガン増えていくのでしょう。

 敢えて問いたいのですけれど、目に見えない大勢のROM連中がいる中で、この訴訟を起すに至った家族の言い分が多少なりとも「わからんでもないなぁ…」という方は全くいないのでしょうか? 様々な患者と様々なやり取りを行ってきた医師もおられると思いますので、誰一人として理解できるという者はいない…というわけではないと思うのですが、どうなんでしょう? 我々ネットの医師が、それこそマスコミに煽られて「患者VS医師」の対立構造を激化させる事は全くもって意味がないどころか、問題をこじらせるのみであると思うのです。

 どれだけネット医師内の論調が社会に影響を与えるかは不明なのですが、それ以前に、ネット医師の論調が、全国のありとあらゆる立場の医師の意見を十全に代表しているかといえばそうではないようにも思います。医療崩壊を憂えてネットで活発に議論を行っておられる開業医の先輩方も、普段はどのような患者さんとも良い関係を築こうと努力していらっしゃるのは同業者として知っております。そのあたり、患者さんとのトラブルを避ける上での知恵というか対処法のようなものに慣れておられるはずですので、その点で大きな違和感を覚えるのですが、どうなんでしょう…