もうこれはよっぽどの事がない限り帰れないのだろう

ガチの職探しを始めたのは昨年の10月で、今年3月に仕事が見つかった。

 

2022年

10月:いくつかのポジションにアプライし始める

11月:コロラド小児病院へ面接に行く。寒いし雪が降っている。選んでくれるのなら喜んで働こうと思っていた。準備のためにせっかくのThanksgivingの休日が潰れた。

12月:オンラインの予備面接が複数。ちなみに家族は8月からこちらで私と暮らしていたのだが、いろいろな判断で私以外の家族は年末に帰国する事にした。今の時点で子供たちがアメリカの教育を受け始めてしまうともう日本に戻ることはない可能性が高く、そうした重大な決定をしてしまう事が、その時の妻と私には難しかった。とはいえ、子供達にとって再度アメリカで生活した事は良い経験になったはずで私にはとても幸せな日々だった。

 

2023年

1月:ワシントンDCのポジションから現地での面接も終わってないのに何故かオファーが貰えたので、しばらく考えた結果行くと言ってしまう。だが、現地の面接が終わってないので、一応、実際には保留と言う扱いなんだろうと私は捉えていた。実際、何の書類にもサインしていない。その前にコロラドに連絡したら、私は選ばれなかったと言われたので、落胆するというよりも怒りが込み上げる。月末にオレゴンポートランドにある一般病院で面接。翌週にオファーが出るもその後に面接が多く控えていたので、今返事は出せないと言うと2週間後には取り消された。仕方ない。一般病院の給料は高いので勿体なかったが、その時オレゴンに住む覚悟は持てなかった。

2月:毎週のように面接に出かける。ダラス、ニューヨーク、ワシントンDC、ニュージャージーにある大学病院へ行った。寒いし、毎週末に東海岸へと行くのは大変で大体5−6時間の飛行時間は長すぎると実感した。ダラスのUT Southwestern では14人の連中と喋る必要があった上に2回のプレゼンテーションもさせられたので疲れてしまった。そもそもそれほど魅力があったわけでは無いのでお礼のフォローアップもしなかった。まあ、失礼な候補者である。1ヶ月後に選ばれなかったという連絡。ちなみにダラスには2017年にトヨタが移転したので日本人コミュニティーが発達しているというので候補に選んだ。ニューヨークの北の郊外のクソみたいに小さな大学病院は希望していた仕事ができそうにないので、お礼のフォローアップもしなかった。実に無礼な候補者である。日本人としての美徳を失いつつあるのかも知れない。許してほしい。ワシントンDCの街はとても美しく、ここで働きたいと思った。仕事にはまあまあの魅力で、しかも何かオファーらしきものもすでにもらっていたし、先方も、来るんでしょ、みたいな雰囲気だった。契約の書類には3週ほどかかるとの事。ニュージャージーのRutgersは仕事内容が私の希望に最もマッチしていたのでお礼のフォローアップもしっかりした。好感触だった。

DCでの面接の直前2月14日に地元の大学のポジションが空いたという連絡をかつての上司からもらったので、即座にアプライした。まさに全てにおいて理想の夢の職場なのだが、私も職探しの過程で何も信じられなくなっていたので期待せずに待つ事にした。

3月:DCの書類上の契約の前に、地元の大学のポジションについて白黒つけたかったので連絡したら面接に呼んでくれるとのこと。色々あって3月27日に採用するとの連絡。フェローの時に世話になった人がまた職場に戻してくれようとしているので、中途半端な理由でやっぱり辞めますとは私のポリシーとして言えない。何となくこれは採用される雰囲気だなと感じていた私は、なぜか面接の日に目が覚めた瞬間、今日私がこの面接を受けてしまうと、もう日本に帰った家族とは一緒に暮らせないだろうという事が真っ先に頭に浮かび、これは大変な事になってしまったとはっきりと自覚した。DCには死ぬほど心苦しかったが理由をでっち上げて行けないと伝えた。本当に許して欲しい。私を最初に選んでくれた人なので本当に申し訳なかった。Rutgers にも断りを入れた。

 

LAに残れるのは心底嬉しい。カリフォルニアからはかなり本気で出たくなかった。何より日本に近い。名の知れた職場で仕事内容はまさに理想的なのだが、心に引っかかるのは引き続き家族と離れて暮らす事である。理想的でないポジションにしかつけないのであれば、諦めて日本に帰る事ができたが、何しろ何の文句も言えないようなポジションが現れてしまった。このまま残り続ける価値があると言えばあるのだが、ないと言えばないのかも知れない。ここ数年日本に帰りたいが帰りたくないと言うメンヘラのような私であったが、この状況が今後も続く事になりそれが私の生きる道らしいので受け入れるしかない。

まだいるんです。なぜか。

いやー。まだアメリカにいるんです。もう13年。ヤバイ。2年前と同じこと書いてる。というか定期的に訪れてしまうのだけれど既視感がすごい。ついにもう口にもしたくないような年齢に突入してはや数年ですがまだしぶとく在米中で、フェローの一年目が終わりかけて、後もう一年フェローをする予定なんですけど、田舎の父親はまだ何とか生き延びてて、日本にいる子供はずいぶん大きくなって、この夏からアメリカに帰ってきてこっちの学校に入れるように手続きをしているところ、という感じ。それがまあ、当初の予定だったのだけれど、ていうか、それでいいのかなと考えてしまう事がこの頃多い。このままだと本当にもう後戻りできないというか、普通にアメリカの移民家族になってしまうわけで、日本は本当に良い国で私たちにとって大阪ほど暮らしやすい街は世界中を探しても他にはないというのに、なんでこんな事になっているのだろうとか、今さらながら考えて、あーこれ、このままでいいのだろうか、というのを去年からほぼ毎日考え続けているという感じ。でもなあここまでやったのに帰るのもなあ、というかもう後戻り出来そうにない、もしくは後で引き返すには面倒な事になるポイントに来てしまったので躊躇しているというか。色々考えてたけど、何で今私がここにいるのかを考えてみたところ、アメリカで暮らす良さも悪さも、日本で暮らす良さも悪さも、実はどっちも大した事ではなく同じような物、どうでも良い事で、別に理由などないという結論に至ってしまったので、これ以上考えない事にした。日本でもアメリカでもどちらで暮らしても良いが結局なんか知らんけど、今ここに居るだけなんでそれ以上でもそれ以下でもないのだろう。しかしこう考えてしまうと、何だか虚しい生き方のようで、何かそれはそれでどうなんだろう。

こんなややこしい事を始める前とその最中は、これまで未経験で憧れのようなものを感じていたアメリカで何とか生き延びてゆくという実感があって、それが充足感や達成感をもたらして生きる前進力というか、ここに残る動機づけのような物だったのだけれど、最近何かそんなのも薄れてきて、何で私はここにいるんだろう、もっと居心地の良さや快適さを追求してとことん楽に生きたい、というか。過去数年間は本当に頻繁に日本に一時帰国してて、もう結構年を取ってきた私にとって、どう考えても日本ほど暮らしやすい国はなくて、日本に帰りたい感が増しているのももう一つの原因何だけれど、でもなあ、今帰るのも勿体無いし帰るという選択肢は今の所ないし。というわけで、来週末はメモリアルデーという事で日本にちょっと帰る予定で、これがもうね、一番の楽しみなのです。

新しい日々

なんか知らんけど、専門医の試験は受かってた。6月は日本に帰って家族とゆっくりできた。その後7月に入って、新しい職場であるのでシステム上知らん事が多く仕事が忙しくて1日結構な時間を仕事に費やしている。ロサンゼルスのひどい渋滞を避けるために5時に起きる生活を始めたんだが、歳をとってきているせいか朝早くに起きる事が苦痛じゃなくなって悲しい思いをしている。また8月には日本に帰りたい。

毎日がつらい

5/5/21

ダメだ。全くやる気が出ない。来月の頭には引越しするので、一月前に日程を抑えようと日系の引越し屋にいくつか電話して見積もりの段取りなど。あと丸々7日で最初の試験だというのにまるで勉強が手につかない。先のことを考えずに勉強しなくてはいけないのに、色々どうにもならない事を調べてたら9時間ほど無駄にしたのかな、今日。多分、もうこれ以上勉強せんでも何とかいけるんちゃうかな、という意識がどこかにあるのだろうが、何もしないと覚えた事がただ抜けてゆくだけなので、危険である。朝方に戻す必要があるので、もう1時には寝ようと思う。

 

5/9/21

世間は母の日なんだが、私の母親は2018年にすでに癌で他界している。2歳になる前の息子を連れて渡米したのが2009年。可愛い盛りの孫が居なくなってしまい、相当落胆したそうだ。死んだ後に父親が教えてくれた。それまでは実家から大阪の私の家までたびたび会いに来ていたのだが、それが何よりの楽しみだったらしい。結局その後、死ぬまで数えるくらいしか孫と会ってない事になるので、これは相当親不孝をしたなと思って後悔している。いずれ母親というのは先に死ぬものなのだろうが、このやり切れなさとどうやって折り合いをつければ良いのだろう。

勉強がしんどい

5月の頭に専門医の試験があるのでその準備に勉強しているのだけど死ぬほど辛い。死ぬほど辛いんだけど、老化しているので辛さを感じる感覚が勝手に麻痺している関係でまだ何とかなっている感じ。ある時、何かの加減で我に帰ったら死ぬんじゃないだろうか。覚える事が多すぎるの何だろうこれ。まあ、これ見て何かわかりませんだったら診断できないので仕事に差し障るから仕方ないんだけど。

時々日本に一時帰国するのが唯一の楽しみで、このご時世なので色々大変なんだけど、何とか暇を見つけては帰りたい。幸い、仕事もそんなに忙しいわけではないので、明日日本に向けて出発する予定。コロナPCR検査を昨日受けて、陰性結果が今日出た。ちなみにワクチンは12/18と1/8に2回分打った。1回目は何もなかったけど、2回目は翌日倦怠感が強かった。

もうね、娘と離れて暮らすのは辛いけど、まあ勉強もしなくてはならないので、この時期は仕方がないかと諦めている。

お金が入ってきます

アメリカ関連の話です。アメリカにいるから恥ずかしながらアメリカの事以外に他に話す事がありません。コロナの影響でみんなにお金が配られる事になって私のところにも大人1200ドル子供500ドルが振り込まれたので嬉しいのですが、息子の500ドル分が額面上減っているので不審に思って去年のTAXリターンの書類を見ると、息子の社会保障番号(ソーシャルセキュリティー番号、通称SSN)が昔に取得したITIN番号のままになってて息子がうちの被扶養者として申告されてなかった事が判明した。

実は去年の2018年度からchild tax credit の対象がシレッとSSN持ちの子供だけになっていたらしい。そんな訳でTAXリターンをお願いした会計士に連絡したら修正申告の書類を送ってくれた。

そしたらさらに1500ドルの払いすぎた税金の還付があるんだと。貰えなかった500ドルは来年にもう一回催促する形になるらしい。まあ、ひょんな事でお金が帰ってくる事に気づく事ができたので良かった。

フェローシップ応募

こちらのレジデントは研修期間が終わると、専門的なトレーニングのために、さらに1年か2年のフェローシップという研修をする人が多いのだけど、その流れに乗って私も応募しなきゃいけない状況で、こういうのは早めに応募した方がいいので、サッサと志望動機を一枚書いてしまいたいところだけど、英文書くのが死ぬほど億劫で、ずっとダラダラと先延ばしにしてたんです。そんで、今日は土曜日で行くところもないので家でやるべきなんだけど、どうしても嫌なのでフェローシップの応募先選びだけをして、日も陰ってきたので何か成し遂げたような気になって終わりにした。

まあそれとコロナなんですけどもうね、ヤツの事は口にもしたくないんですが、病院は開いてるので毎日仕事には行かなくてはいけなくて、食糧が無くなったら近所のスーパーに買いに行けば大丈夫です。ということでまあ日常生活には大して変化はありません。道路はガラガラで渋滞もないのでそれは快適。

私、家族が日本にいる関係で毎月のようにLAXから日本に帰ってたのですが、コロナのせいでできなくなってしまって、まあしばらく家族に会えないのです。日本に飛ぶとしたら14日間は自宅待機だし、その前にどうやら検疫でコロナ検査されて結果が出るまでどこか指定の場所で待たなくてはならないとの噂もあるし、そんでアメリカに帰ってきた時にまた職場に戻る前に14日間自宅待機しなくてはならないので、まあ実質的に行ったり来たりが出来ないという事になってしまったのが辛いです。