老人を暖かく見守るモード

 毎日毎日、年寄りの体の具合を尋ねてお給金を頂くという辛気臭い職業に就いたわたくしですので、老人たちのいわゆる、避けようのない身体機能の衰えぶりや、それ故についついしでかしてしまう傍若無人な振る舞いなどに関しては、一般の方々以上に深い理解を示しているつもりでございますが、あまりにも酷い状況に遭遇すると、どうにも許せなくて気絶しそうになってしまう事があります。

 いつもように電車の中で本を読んでいると、うっすらと気持ち悪いファルセットボイスが聞こえてきたわけですけど、どこの迷惑な野郎がアース・ウインド&ファイヤーの歌にトライしてやがるのだろう…ここはジャンボカラオケ広場じゃないよ! と思ってあたりを見回すと、向かいに座った爺さんが「千の風になって」を気色の悪いうら声でシンギング・イン・ザ・トレイン! もう勘弁してほしい…

私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 死んでなんかいません

 年寄りに人気の大ヒットソングだそうですけども、あの世への道を見失った有象無象の認知症の霊魂が「ワシは死んどらんぞ…」と徘徊するアナザー・ワールド。残された家族の人にとっては「どうでもいいから爺ちゃん早く成仏して…」というのが本音だと思うので、年寄りが歌うと本当に気味が悪いですから、電車の中はもとよりお家でも歌わない方が良いと思うのです。

 この頃は老若男女、貧富の差を問わず、猫も杓子も携帯電話を文字通り携帯するような時代らしく、70の爺さん婆さんも当たり前のように電話機を持ち歩いているらしい。老人性難聴の影響かどうか、彼らの呼び出し音がやたらデカいのが困る。窓から差し込むうららかな春の日差しの中、昼下がりの静謐な車内環境で、心地よい振動に身を任せてうとうととしつつあった私なわけですが、目の前に座った爺さんのカバンから、「ほら! どうぞ皆さん聞いてください! 着信音のチョイスからして御察しのとおり、私はデリカシーのない人間なのですよ!」と言わんばかりに「踊る大捜査線」のテーマ曲が爆音で着信をお知らせし始めて、もう電磁波がペースメーカーなどの医療機器に本当に影響を与えているのかどうかの議論云々よりも、心臓そのものに悪いんじゃないかと思われた瞬間でした。

 まあ普通の人間でしたら申し訳無さそうに電源を即切りして何ごとも無かったかのようなフェイスをするわけですが、老人たちは無駄に律儀ですから電話に応答するわけなのです。それがまた、耳が遠いのと比例して声がやたらデカいわけで…「はい! はい! あーそうですか! 今! 電車! なんですわ! ええ! ええ!」耳が遠い上に白内障などを患ったりして視力も衰えているのであって、すなわち状況を把握する能力といったものが総合的に衰えているらしいので、周囲の冷ややかな視線にも何処吹く風…

 若者のマナーの悪さを指摘しようとする大人がいるのは別にどうでも良くって、携帯電話を携帯し慣れていない携帯ビギナー老人の、無邪気なマナーの悪さは相当に性質が悪いと思ってしまうのですが、まあ老人たちは残りの電池も少ないみたいですし、よく見ると体がプルプルと震えているだけだったりして、まさにバイブ機能でマナーモードを具現化したような存在ですので、ここは敢えて暖かい目で見守るというのが本当の大人のマナーというべきものなのでしょう…